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May 7
“これも非常に微妙なニュアンスなのだが、『正義』や『正しさ』をたてて人を論難したり主義を通そうとする姿勢そのものに潜む欺瞞をこの対談はひどく意識させてくれる。このことは、吉本隆明氏が親鸞上人について語る時に繰り返し出てくる観点でもあるのだが、『正義』を自分の内に持って自らを正そうとするのはよいが、これを外に出して、他人や世間に押し付け、人を裁くようになると、どうにも怪しさと危うさが漂うようになることが多い。そもそも絶対の正義などというものはこの世には存在しないし、正義があるとしてもそれは常に相対的で、状況に応じて変化するものだろう。古今、どんな戦争でも『正義』が唱えられる。戦争というのはいつも『正義』と『正義』のぶつかり合いだ。吉本氏がしばし例にひくのは、禁煙/嫌煙だ。煙草が体に良くないから禁煙しようと個人が考えるのはいい。だが、これを権利として『嫌煙権』を他人に強要しようとすると、どこか窮屈でいたたまれなくなることを感じたことはないだろうか。これが悪いことと断じるつもりは毛頭ないが、どこか全面的には納得できない微妙な欺瞞があることも少なくない。(相手を折伏して満足感を得たい等。もちろんこれは、心から相手を思いやる等、動機と進め方次第で心から納得できるようにもなる。)まして、昨今の日本は、安心/安全の旗頭の下に、徹底的に正義を押しつけ合い、社会全体が非常に窮屈になっている。私などこれこそ幸福度を下げる重要な要因の一つなのではないかとさえ思う。どんな細かいことでも始終『善』や『正義』でお互いを責め合う社会に私は住みたいとは思わない。” 「勝間和代vsひろゆき」討論はとても大切なことを世に問うている - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る